『どうする家康』あれこれ「欲望の怪物」2023-09-18

2023年9月18日 當山日出夫

『どうする家康』第35回「欲望の怪物」

家康は秀吉のもとに行くことになった。臣従するという形になるのだろうが、ここで秀吉との間で、一芝居を演じることになる。芝居の芝居というのは、あまりそれらしくても、また逆に、自然でありすぎても難しいものだが、大阪城でのシーンは見ていてなるほどと感じるように演出してあった。でもまあ、最終的には、秀吉の天下は長くは続かず、また、豊臣も亡ぶことにはなるのだが、それはもうちょっと後のことになる。

面白かったのは、真田昌幸。『真田丸』でも登場していたのだが、ドラマのなかでは古いタイプの戦国武将ということで描かれている。真田のような武将がいなくなった時が、徳川の天下ということになるのかもしれない。

ところで秀吉は言っていた、戦が無くなればどうやって武士を喰わせていくのか、と。日本の統一が終われば、海外に所領を求めて戦を仕掛けることになる。(これは、後々まで禍根を残す歴史となるわけだが。)

しかし、秀吉の言っていたことももっともである。戦をして所領を広げることで武士を養っていくというシステムから、一定の所領を安定的に保持することで秩序を保つシステムへの変換が、歴史的にこれから必要なことになる。それが、近世という時代、徳川の幕藩体制のシステムということになるのかと思う。このあたり、今の歴史学ではどのように考えられているのか、興味あるところでもある。

次回、於愛の方をめぐってドラマは展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。

2023年9月17日記

雑談「昭和への道」(3)帝国主義とソロバン勘定2023-09-18

2023年9月18日 當山日出夫

生誕100年 司馬遼太郎 雑談「昭和への道」(3)帝国主義とソロバン勘定

第一回の放送から録画して順次見ている。その三回目を見て思ったことなどいささか。

日本の近代を考えるときに、日露戦争講話交渉のときに日比谷に集まった群衆に焦点をあてて語っていたのが印象的である。歴史的に見るならば、日露戦争がどのような戦争であったか政府と軍、そして、ジャーナリズムは、その実態を国民に知らせなかった、ここに問題の根本があることになる。民衆の側からすればだまされていたということになるのかもしれないが、やがてその民衆の声が政府や軍を動かすようになっていく。

この番組のタイトルではソロバン勘定と言っているが、言いかえるならば、経済的リアリズムと言うこともできるだろう。

日本が朝鮮を併合した結果、あるいは、満州国を作った結果、果たして儲かったのか、これは重要な論点である。

これまでの放送では、司馬遼太郎は石橋湛山の名前を出してはいなかったと思う。石橋湛山は、植民地、外地を放棄して、小日本主義を唱えた。これを経済的な損得勘定の裏付けを示して論じた。これは、やはり今こそ省みるべき論点の一つだろうと思う。だからといって、儲かるなら植民地を持ってよかったのか、ということにはならないが。

司馬遼太郎が、小説やエッセイなどで繰り返し語っていることであるが、昭和戦前の日本は、日本の経済、資源などについての実力を、国民に隠してきた。軍隊が石油で動く時代になって、石油資源の無い日本が、大規模な軍隊など持てるはずがないというリアリズムの感覚が、失われた時代ということになる。

何よりも重要なことは、情報の開示と、言論の自由ということになると、考える。この二つのことが、今の日本では危うくなっていると危惧するところがある。

それから、ロシア、ソ連に対する感覚。恐怖心というものは、日本の安全保障を考えるうえで、いまだに重要な事柄の一つでありつづけているとも言えよう。ウクライナでの戦争によって、顕在化したとも言うことができるだろうか。

司馬遼太郎が『坂の上の雲』の映像化には反対であったというのも、興味深い。この小説は、国家と軍の戦略レベルでの小説であるという。(映像化すると、どうしても戦術レベルの話しになってしまうということだと思う。ただ、私は、NHKの『坂の上の雲』のドラマは全部見たのであるが。)

2023年9月11日記