「生成AIの正体 シリコンバレーが触れたがらない代償」2024-04-29

2024年4月29日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 生成AIの正体 シリコンバレーが触れたがらない代償

特に目新しいという内容ではなかったのだが、AIのマイナスの面をきちんとまとめて報じるということは、意味のあることだと思う。

生成AIの内部で何が起こっているのか、作った人間にもわからない。しかし、新たなデータを読みこませ、処理速度を上げるという他に、今のところAIの進むべき方法はない。

AIの「正しさ」(PC)については、議論されることである。これは指摘されるとおりなのだが、では、AIが「正しく」なったとして、それは人間にとってどういう意味があるのだろうか。「正しい」か「正しくない」かは、人間が判断すればいいことなのではないかとも思うが、しかし、人間の判断を待っていたのでは、現実に対応できないということでもあろうか。

もし、人類の知的遺産……具体的には、過去のすべての書物や芸術というようなイメージになるだろうが……をAIがデータとして読みこんだとしても、それが「正しさ」とつながるかどうかは、分からないと思う。今の価値基準で「正しくない」ということを積み重ねてきたのが、人類の歴史であると言っていいだろう。

ではAIに「正しさ」を求めるというのは、AIが神になることを期待していることになるのだろうか。あるいは、正義のジャッジをAIに委ねるという未来を思い描くことになるのだろうか。

私としては、「正しさ」は人間の判断することとして残すべきであると思うが、どうだろうか。もちろん、その「正しさ」は、時代の変化とともに移ろいゆき、常に議論の対象となるものとしてである。

ただ、AIの出力した結果をインターネットを経由して、さらにそれをデータとしてAIが学習するということになると、このスパイラルから抜け出すことは難しいかもしれない。

それから、AIのためのコンピュータに、中国の新疆の人びとの強制労働がある……このことは、あまり日本では報じられないことかと思う。

2024年4月25日記

『光る君へ』「うつろい」2024-04-29

2024年4月29日 當山日出夫

『光る君へ』第17回「うつろい」

私は、令和の年号は基本的に使わない。理由は、これを決めたときの総理大臣、それから、考案した人間が、大嫌いだからである。だが、今上陛下については、まさに天皇にふさわしい方であると思っている。

年号を決めるとき、手続きがある。だれが考案し、どのように決まるのか……このあたりのことは、平成から令和に改元したとき、いくつかの書物が出て、その裏の事情が明らかになっている。このときの改元のことは、歴史的に見れば異例であったということになる。

歴史考証として妥当と判断してのことなのだろうが、関白の道隆の発案で長徳の新しい年号に決まったというのは、どうなのだろうかと思う。このところについては、年号の歴史の専門家から、いろいろと意見のあるところかもしれない。さて、史実としてはどうっだたのだろうか。

令和の新元号の裏事情を書いた本としては、

野口武則.『元号戦記』(角川新書).KADOKAWA.2020

が一番面白かった。

清少納言は、さもありなんという感じであった。『枕草子』は一条帝中宮定子のサロンをきらびやかに描いているのだが、その裏には、貴族たちのどすぐろい権謀術数の数々がうごめいていた、それを身近で知っていたということになるだろうか。まあ、それを後にどのように『枕草子』に書くことになるかは、また別の問題ということになる。

まひろは、『荘子』の写本をしていた。画面に映った巻子本は、ヲコト点などはなかった。ここは、まひろの学力があれば、訓点などほどこさなくても読めた、ということになるだろうか。(まあ、朱のヲコト点を打った写本を小道具で作るのも手間であったということもあるのかもしれないが。書体としては行書で書いていたが、楷書であるべきかもしれない。)

まひろがさわに送った文を、さわは書き写していた。臨模していたということになる。漢文の文書には日付が入る。しかし、仮名書状には日付がない。これは、この当時の仮名書状が、どのような性格のものだったかをしめすことになる。

まひろは書くことに意味を見出している。後に物語を書くことになる布石となる。

最後の紀行は、祇園祭りであった。このとき、テレビの字幕に出る「祇」の文字は、「ネ氏」を使っていた。私は、別にこの字が正しいと思っているわけではないのだが、NHKでこの字を見るたびに、ちょっと責任を感じるところがないではない。機会があれば、祇園の再調査などやってみたいところなのだが、これはもう若い人の仕事になるだろう。

2024年4月28日記

100カメ「天気予報会社」2024-04-28

2024年4月28日 當山日出夫

100カメ 天気予報会社

スマートフォンを持っていないので、天気予報のアプリがあることは知っているのだが、実際に自分で見るということはない。天気予報が知りたければ、手元のPC……今はVAIOを使っている……で、気象庁のHPを見ることが多い。テレビのニュースと天気予報は、基本的に見るようにしている。もう隠居した身としては、外出するのに天気をさほど気にすることもない。晴れていれば、カメラを持って庭に出て草花の写真を撮る。雨ならば、家で本を読むか、録画してあったテレビを見るかである。

天気予報の会社があることは知識としては知っていたことなのだが、実際にその現場でどんなふうに働いているのか、これはとても興味深い。特にウェザーニュース社の予報の精度が高いことは、よく言われていることだと思う。

番組は、そのオフィスの現場の様子であるので、これはこれとしてとても面白いのだが、気になるのは、観測データをどのようにして手に入れているのか、それがどのように集約され予報につながっているのか、というあたりである。まあ、場合によると、ここのところが一番の企業秘密なのかもしれないが。

面白かったのは、天気予報を伝えるという仕事が、生活する人間の感覚で捉えられていることだろうか。雨が降るという予報で、冠水に注意すると言うのか、あるいは、しばらく待って雨が止むまで待機するのがいいとか、予報によって人間がどのように行動すべきか、ということを考えているところだろう。それによって、保育園の迎えをどうするかが変わってくる。

天気予報というのは、物流や農業、漁業などにも大きな影響がある。たぶん、ビジネスとしては、これらの産業向けの天気予報ということもあるのだろうと思う。(そして、気象の情報というのは、重要な軍事情報でもある。)では、この会社は、いったい何で儲けているのだろうか。天気予報ビジネスの世界はいったいどうなっているのか、興味あるところである。

天気予報が、技術としてどうであるかということも興味があるが、それ以上に、どういうメディアでどのように伝えるのか、ということも重要である。

少し前のことになるが、語彙・辞書研究会のとき、気象庁から担当者の方に来てもらって、天気予報、特に、災害などの伝え方についてどう考えるべきかという講演を聴いたことがある。毎日の天気予報も重要であるが、台風や地震などのとき、災害時の情報の伝え方、コミュニケーションのあり方について、これは言語研究の研究課題でもある。

2024年4月23日記

『虎に翼』「屈み女に反り男?」2024-04-28

2024年4月28日 当山秀お

『虎に翼』第4週「屈み女に反り男?」

『寅に翼』を見ていて思うことは、このドラマの脚本は、いわゆる保守的な男性中心主義を気にするというよりも、現代の先鋭的なフェミニズム論者の批判をかなり気にかけて作っていると思う。簡単にいえば、今ではそんな古い考え方(それがフェミニズムの範疇にはいるものであっても)は通用しないという批判をどう避けるかということを考えて作ってあるように思える。

このドラマは「思想の歴史」を描かない。思想史としては通時的に描くところを、このドラマでは、様々な境遇の寅子の同級生たちによって共時的に描いているということになる。例えばよねなどは『女工哀史』の時代を彷彿とさせる。(なお、これまでに、平塚らいてうの名前は登場してきていないはずである。)

ヒロインの子役がなかった。いきなり女学生からの登場だった。これは意図的にそうなのだろう。

寅子は、「はて」と言う。だが、なぜ、そのように言うようになったのか、生いたちとか、学校の友達関係とか、親戚との関係とか、このようなものは出てきていない。つまり、寅子は、はじめから「はて」を口にする存在なのである。この「はて」は、今日でいうフェミニズムに通じるものとして、描かれている。特に男女の違いということについて、寅子は「はて」を連発する。

すくなくともこれまでのところ、寅子については、なぜ男女の違いということについて、「はて」と疑問をいだき、それをストレートに口にするようになったのか、ということについての説明的描写はない。これまで描かれてきた寅子の家族の様子からは、そのように育てられたということはうかがえない。

これは意図的にそうなのだろうと思う。

フェミニズムにも歴史がある。昭和の初めごろの時代、男女の権利についてどのように一般に考えられていたか、そのなかで先駆的な人たちはどのような意識を持っていたか、ということがあるだろう。それが、戦争から、戦後の新しい憲法になって、どのような価値観が日本のなかで生まれ広まり定着していったのか、欧米からどのような思想的影響があったか、その歴史があるはずである。だが、このドラマでは、この歴史の部分を細かには描かない方針のように見える。(最初の冒頭の部分で、寅子が憲法を読むシーンがあったが。)

寅子がどんな考えをもっていたか……ちょっと古めかしいことばを使っていえば、プチブルお嬢様フェミニズム、と言ってもいいだろう。それを、今日の先鋭的な考え方から見るならば、場合によっては、非常に批判的に見ることもできるかもしれない。

どのような歴史的な環境、人間関係のなかで育ったか描かない。それがどのように人格形成に影響があったか、完全に省略されている。これは、今再放送中の『オードリー』や『ちゅらさん』と比較するとはっきりする。

印象的だったのは、明律大学の学生である寅子とその仲間の女性の学生たちについて、バンカラ男子学生の轟が「漢」と言っていたことである。これは、テレビを字幕表示で見ているとそうなる。字幕で「漢」と出て、台詞では「おとこ」と言っていた。

一般的な意味としては、「漢」を「おとこ」と読ませる場合、男の中の男、男気のある男性、それの延長として、人間としての理想の一つの形、というような意味になる。つまり、明律大学で法律を学ぶ学生として、同じ同志であり、人間であり、理想を持っている、ということの認識になる。

今日で言うフェミニズムを、「漢」ということばに収斂させて、男子学生と女子学生との対立を止揚していることになる。

これは、たくみな(あるいは、ずるい)脚本の作り方だと思う。

寅子たちの考え方を歴史的に分析するということを回避することになる。また、いわゆる保守的な考え方からの寅子たちへの批判についても、きわめて一般的な、あるいは、日本的な理想論の人間についての考え方という方向で、かわすことができる。そして、男子学生と女子学生の対立を解消できる。

ところで、私の考えとしては、やはり寅子たちは特殊な存在だと思う。日本でようやく女性弁護士への道がひらけたときに、大学の法学部で学ぶというのは、先駆者としての覚悟がいることにちがいない。今でこそ、法曹に女性の活躍の場は広がっている。女性だからといって特別視することはない。しかし、戦前の日本でその道にこころざしたということは、相当の決意があってのことだと思わざるをえない。

時代として一般に女性の社会進出がまだまだの時代である。これを、特別視してほしいわけじゃない、という寅子の言い方には、かなり無理があると感じる。もしそう思っていたとしても、周囲の人が特別視しないではいられないのが普通の感覚だろう。その周囲の目を意識することはあったと思わざるをえない。

この週で徹底的に悪いイメージで描かれていたのが、梅子の夫の弁護士であり、その長男の帝大生である。これを、男=帝大=弁護士=社会的強者=悪者、というステレオタイプで見るならば、梅子は、その真逆の存在として、きわめて人間的で正しい存在ということになる。

だが、まだ小学生の子どもを家に残して、おそらくその面倒は家で義母か女中がみることになるのだろうが、明律大学の女子部から法学部に通っているというのも、素直には納得しがたいものがある。ここのストーリーの意味づけとしては、親権を手にいれるために法律を学んでいる、ということにしてあった。これは、たしかに現代の視聴者にうったえる部分ではある。だが、幼い子どものことを思うならば、少しでも家にいて一緒の時間をすごしたいと思うのではないだろうか。そして、法的に争うことになった場合、育児を義母や女中任せにしておいて、大学に通っているということは、親権獲得のために、はたしてプラスにはたらくだろうか。このあたりのことについては、かなり無理のある筋書きだと私は考える。

ここでは、子どもを愛する母親は絶対に正しい存在である、という価値観が根底にあると感じるのだが、これははたして無条件に肯定できることなのだろうか。(このような母親の愛情絶対視が悲劇を生んでいるというのが実際の社会のある面かとも思うが、どうだろうか。)

梅子のエピソードは、女性の権利を主張すると同時に、女性の母性を求める考え方にも配慮した作り方となっている。これは、決して矛盾するというものではない。

さらに思うこととしては、明律大学の学生は、帝大生にコンプレックスを持っているということであった。一般的にそう言える状態だったかもしれないが、今でいう司法試験をうけて資格をとれば、出身大学はどこであっても、同じ資格の保持者ということで対等である、という側面もあったかと思う。すくなくとも、現代の司法試験、法曹の世界は、そのようなものだと理解している。ただ、それでも、内部的には、ある種の学閥的なものはあるかもしれないが。

それに、この当時の大学生といえば、それだけで立派な社会のエリートである。ここで、帝大に対するコンプレックスを大きくあつかう必要ななかったかと思う。あつかうなら、男性であっても、中学にもいけない、あるいは、高等学校にいけないというような、社会的階層の人びとのことであるべきだろう。ここは、進学するとしても商業学校であったような人びとを登場させるべきところである。

さらにいえば、昭和の初めのころは、不況で、大学に行ってもろくに仕事がなかった時代でもある。小津安二郎の映画『大学は出たけれど』は、昭和四年のことである。

さて、寅子のお父さんが逮捕されてしまった。これがこれからの寅子の人生にどう関係することになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2024年4月27日記

「未来のインフラ“3次元点群データ”最前線」2024-04-27

2024年4月27日 當山日出夫

サイエンスZERO 未来のインフラ“3次元点群データ”最前線

点群データということばはこの番組で知った。

自動運転が実用化されるためには、このような技術の開発と進歩があってのことなのか、と思うところがあった。

森林の管理が簡単にできるようになったというのも、とても面白い。

地域全体を点群データ化することによって、今後の防災など実に多様な利用が可能になってくることは理解できそうである。

これがオープンデータであるというのも、意味がある。また、それが記録に残ると、将来の災害のときなどに、復旧の役に立つことになる。静岡県のこころみは、いずれ日本全体へと拡張したものになるかと思う。

いいことずくめのようなのだが、天邪鬼に考えてみると……このようなデータは、重要な軍事情報でもありうる。さて、この観点からの管理はどうなっているのだろうか。もし、地域全体を点群データ化するとしても、軍事施設や原子力発電所などの詳細なデータは、公開していいものなのだろうか。

ドローンで点群データが取れるならば、今、世界で行われている戦争にも、使われているかもしれない。この番組は、科学や技術のこのような側面には触れないという方針で作ってあるのだが、技術はデュアルユースであるという視点は、常にもっておくべきかと思っている。

2024年4月26日記

「H3ロケット 失敗からの再起 技術者たちの348日」2024-04-27

2024年4月27日 當山日出夫

NHKスペシャル H3ロケット 失敗からの再起 技術者たちの348日

はっきり言って、「新プロジェクトX」よりも面白い。

かなり淡々と技術者たちの行動を追っている。それだけに、そこからにじみ出てくるロケット開発への思いとか、苦労とか、工夫とか、様々な感情が感じとれる。H3ロケットの発射が成功したときの喜びの表情は、ほんとうにうれしそうだった。ここに、感動を誇張するナレーションなどは要らない。

ただ、ロケット開発には秘密となる部分も多くあるのだろうから、取材できて放送できる範囲というのは限られる。しかし、その範囲でも、実にいろんな人びとの苦心の積み重ねであることが理解される。

印象に残ることは、すでに実績のある技術であっても失敗の原因かもしれないと疑ってかかるという姿勢である。これはなかなか出来るものではないと思う。

また、前回の失敗から一年未満で発射に成功したということも見事である。設計、製造にかかわる一連のシステムがきちんと把握できるからこそ可能になったということになる。初号機の打ち上げのときには、すでに二号機以降の製造も進んでいるということでいいのだろう。それに対して、木構造の原因究明を行うことができるというのも、見事というべきである。

成功よりも失敗から学ぶことが多い。これはとても重要なメッセージである。まだ日本は失敗できるだけの力があるというべきであろう。

2024年4月25日記

「そうだ!電車に乗ろう“鉄道技術”最前線!」2024-04-26

2024年4月26日 當山日出夫

サイエンスZERO そうだ!電車に乗ろう“鉄道技術”最前線!

もう学校で教える仕事をやめて、京都に行くこともなくなった。東京に行くせこともない。電車(近鉄、京都地下鉄)には、ここ数ヶ月以上乗っていない。

電車の技術の最前線のことだった。なるほど今の電車というのは、こんな技術を使っているいるのかといろいろと興味深かった。

東京などの都市部での場合と、長距離の場合、また、地方都市の場合、それぞれに状況は異なるから、そこに求められる技術も違ってくるにちがいない。ただ、現代の趨勢として、鉄道よりも自動車の方がメインの移動、物流の手段になってきているかとも思える。とはいえ、新幹線などは人の移動に欠かせないものであることも確かである。

燃料電池の開発で日本はどのような位置にいるのだろうか。技術的に可能であっても、行政の規制が厳しくて実用化できないということは、どうかなと思う。まあ、このあたりは、中国の方が、新しい技術について規制がゆるいということもあるのかもしれない。

鉄道には様々な技術が使われている。その国の実情にあった、そして、最先端の技術の総合という面がある。この意味では、日本の鉄道技術は、十分に世界のなかで生きのこっていけるものなのだろうと思う。

2024年4月18日記

100分de名著「フロイト“夢判断” (4)無意識の彼岸へ」2024-04-26

2024年4月26日 當山日出夫

100分de名著 フロイト“夢判断” (4)無意識の彼岸へ

もう隠居ときめているので、ある意味でこのような番組をかなりリラックスして見ることができる。

専門分野はまるでちがうのだが、しかし、学問的に正確なことを、よりわかりやすい一般的な言い方でつたえるのは、かなり難しい。厳格に定義された専門用語で話す方がずっと楽である。

これまでの四回を見てきて、ここのところを実にたくみに話しをしているな、と感じたものである。

フロイトが言っていること、それを現代の観点からはこう解釈できるということ、また、批判があるとしてどのような批判があるのか、さらには、それらについて自分はどのように考えるのか……ここのところが、はっきりと区別する話し方になっていた。こういう複雑なことがらを、明瞭に区別して話すということは、とても難しいことである。しかも、一般の視聴者を相手にしてのことである。その難易度はかなり高い。

フロイトの研究、精神分析が、はたしてサイエンスであるかどうか、このことについては、まったく言及することがなかった。ほのめかすことさえもなかった。このことは、この専門の分野においては、常識的なことなのかもしれない。あるいは、心理学という分野は、現代ではサイエンスとして一般に認識されていると思うのだが、だからあえてまったく、このような方向に話しを持っていかなかったかとも思う。(私は、精神分析がサイエンスでなければならないとは思わない。また、サイエンスだけが学問の方法だとも思わない。ちなみに、今では、私は人文科学という言い方をしない。人文学ということにしている。)

フロイトは、無意識が人間にはあるということを発見した、ということでいいのだろう。では、人間は、無意識からどれほど自由でありうるのか、と考えることができる。

近代的な人間観の根底にあるのは、私の理解では、自由意志を持った独立した個人、という措定である。

人間の自由意志で選ぶことのできないことがら……肌の色であるとか、性別であるとか、どのような文化的環境、社会的経済的環境に生まれたか……このようなことによって、差別されることがあってはならない。これらを超越したところに人権をとらえることになる。はっきり自覚されないとしても、暗黙の前提となっていることかと私は考えている。

では、このような人間観において、無意識の存在とはどういう意味をもつのだろうか。人間は、無意識から自由でありうる、自由に判断し思考することが可能なのだろうか。また、無意識と、文化的な要因や性別などはまったくの無関係といえるのだろうか。このあたりのことが、最後に疑問として残ることになる。

フロイトは人間を装置ととらえていた。今なら、人間はコンピュータにたとえることになる。この一世紀あまりの間に、人間とはどんなものなのか、その根本的なところで大きな変革が起こってきたことも確かである。生成AIの時代、人間の無意識について、どうか考えるようになっていくだろうか。

2024年4月23日記

「なぜ隣人を殺したか〜ルワンダ虐殺と煽動ラジオ放送〜」2024-04-25

2024年4月25日 當山日出夫

時をかけるテレビ なぜ隣人を殺したか〜ルワンダ虐殺と煽動ラジオ放送〜

ルワンダの内戦のこと、ツチとフツの対立、殺戮のことは、記憶にあることである。

番組の意図としては、ラジオというメディアのはたした役割、ということになる。テレビも新聞もない地域で、ラジオだけが、人びとに情報を伝えていた。そのラジオの煽動によって、人びとは虐殺にはしった。

たしかにこれは、今日の問題でもある。池上彰は、SNSのフェイクニュースなどのことを言っていたが、実は、事態はもっと深刻な状況にあるといっていいかもしれない。ハイブリッド戦争ということがいわれるようになった現代、すでに日常のなかに戦争が入りこんできている。日本のなかで宣伝工作活動(ちょっとことばは古いが)にかかわるSNSは、多くあるといってよい。もちろん、そこにはAI技術も使われていくことになる。

実感としていえることは、SNSにおいて一方的な意見が拡散するかたわら、それを打ち消す反対の意見も、少なからずある。このバランスを見ていくしかないということぐらいだろうか。

私は、X/Twitterは、一〇数年以上アカウントを持っているが、ここ一〇年ぐらいフォローを増やしていない。自分の気に入る意見のアカウントをフォローすることをしていってもいいかもしれないのだが、あえて、そのままにしている。自分とは異なる意見を主張するアカウントも眼に入るようにしている。

少なくとも、今のところ、一方的な情報だけで埋まるということは起こっていないとは思っている。

最近になって、特定の偏った意見については、反論のメッセージが出るようにはなってきた。ないよりマシという程度であるが、これも、今後、AIの利用で事実に基づかないフェイクニュースをチェックできるようになる(かもしれない、と思うが、どうだろうか。)

それから、私は、今ではRTを基本的にしない。

それにしても、当時のルワンダのラジオ放送の音声が録音されて残っているということも驚きの一つである。

ルワンダの現在はどうなっているのだろうか。アフリカでは、経済発展を遂げることのできた国の一つということだと思うが、かつての内戦と虐殺の経験は、今にどのように残っているのか。このあたりのことについて、その後のルワンダということで考える番組などあればと思う。

2024年4月24日記

『舟を編む ~私、辞書つくります~』(10)2024-04-25

2024年4月25日 當山日出夫

『舟を編む ~私、辞書つくります~』(10)

『大渡海』が完成した。

辞書を作るには、様々な人びとのいろんな努力が積み重なっている。辞書を作っていく過程を、このドラマは丁寧に描いていたと思う。国語学、日本語学の観点から見ても、よくできたドラマだったと言っていいだろう。

このドラマの第1回のときにも書いたことだが……私の国語学の師匠は、山田忠雄先生である。新明解国語辞典の国語学者と言っていい。慶應義塾大学の文学部の学生のとき、国語学を勉強したいと思った。その当時、慶應の国文科には国語学の先生がいなかったので、慶應での恩師である太田次男先生が山田先生のところに行けと紹介してくださった。渋谷の山田先生の研究室に一緒に連れられて行ったのを憶えている。その後、山田先生に師事することになった。

山田先生から多くのことを学んだが、今でも私のなかに残っていることの一つとしては、辞書の編纂には、批判的精神が必要だということである。特に辞書の編纂にかぎらず、国語学研究、学問一般に言えることでもある。

あるいは、ひょっとしたら、私の人生の選択肢として、辞書の編纂にたずさわるという道があったかもしれないと、今になっても時々ふりかえって思うことがある。もし、そうなっていたとしたら、今では、もう定年ということでリタイアする時期でもある。『大渡海』のようなプロジェクトがあれば、最後の仕事となったかもしれない。

この意味では、このドラマは、まったくの架空の他人事のドラマとは思えないという部分があることは確かである。

COVID-19、コロナ禍のことは、どう人びとに記憶されるだろうか。個人的には、二〇二〇年の春頃、NHKが夕方に朝ドラの『ひよっこ』の再放送をしていた。それを見て、すぐに夕方のニュースになる。その始まりは、きまって渋谷のハチ公前の様子であり、その日の東京の感染者数の発表があった。日に日に、渋谷の街から人がいなくなり、感染者数が増えていった。この先、この世の中、どうなっていくのだろうと思ってすごしたものである。

その後、四月になっても、大学の授業は始まらず、結局オンラインでの教材送信と電子メールでのレポート提出ということで、前期の授業となった。

国語学、日本語学の観点から考えてみても、この時期、多くの新しいことばが登場した。そもそも「新型コロナウイルス」ということばが新しいものだった。「パンデミック」も日常的に目にするようになった。「手指消毒」も新しく使われ始めたことばであるといっていいだろう。

さあ、この種のことばを新しい辞書に収録するかどうか……これは、判断に悩むところである。

新しいことばが、これから日本語の中に定着して残っていくだろうか、ここをまず考える必要がある。ドラマでは明確に描いていなかったが、もし新しいことばを見出しとして入れるとすると、削らなければならないことばがある。それを、できるかぎり、同じページのなかでやりくりしなければならない。むしろ作業として大変なのは、どのことばを削除するかの判断と、組版の調整ということになるだろう。

妥協的判断としては、さらに見出しの追加はせずに、その後の改訂版の編集のときの課題とする、というあたりになるかと思うのであるが、さてこのあたりのことについては、人によって判断が分かれるとこかとも思う。

これがデジタル辞書ならば、見出し語の追加は、かなり容易である。紙販はそのまま、デジタル版で追加見出しがある……こういう作り方もありうる。そして、デジタル版では最新情報が載っている、これを販売のうりにすることも可能だろう。

新しいことばが使われるようになることには、比較的簡単に気づく。しかし、それまで使われてきたことばの意味用法が徐々に変化していくことは、なかなか気づきにくい。これは、長年にわたる調査研究の積み重ねということになる。

このドラマには、コーパスが登場していなかった。そのようにドラマを作ったということなのだろう。もしコーパスを登場させると、それはどんなものなのか説明に余計な手間がかかる。また、はっきりいってしまえばであるが、国立国語研究所のBCCWJは、『大渡海』の編纂の時点からみれば、すこし古いことばをあつかったものとなっている。コーパスの継続的な拡張が重要である。

一〇回のドラマであったが、見終わって感じることは、このドラマは、ことばを丁寧にあつかっているという印象を持つ。よくできたドラマだったと思う。

2024年4月23日記