「舟を編む ~私、辞書つくります~」(8)2024-04-11

2024年4月11日 當山日出夫

「舟を編む ~私、辞書つくります~」(8)

辞書の用例採集カードが登場してきた。最も著名なのは、見坊カードだろう。

さて、このような用例カードは、今、どう管理されているのか。また、これからどう管理していくべきなのか。紙の耐用年数はそう長いものではない。基本的には、デジタル化(画像データ)して、しかるべき検索用の見出しを付加して、データベース化、ということにならざるをえない。

ドラマで出てきているのは、現代語の範囲のことばになる。これも、古典語にまでひろげるとことは簡単ではない。古典テキストは時代によって変わる。一般には、古典は不変であると思われているかもしれないが、しかし、専門の研究者の目で見るならば、古典のテキストは、その時代の本文研究に従って変化していくものである。こういうものは、最新の研究成果をふまえた本文に基づかねばならないことは言うまでもない。

見出し語にもれがないかどうかという問題だが、この時代なら、デジタルのデータで処理することになるだろう。とはいえ、見出し語の認定ということは、かなり高度な判断をともなうことになるので、機械的にできるというものではない。細部については、人間の目でのチェックが必要になる。

ドラマに出てきた、「血潮」のようなことばならば、デジタルデータの照合で発見できているはずだと思うが、どうだろうか。

ところで、今、WEBで「血潮」を検索してみると、いくつかのデジタル版辞書をみることができる。まあ、たしかに便利になったとは感じる。だが、安心してその語釈を信じていいかどうか、用例は信用できるものなのかどうか、ということになると、少なからず不安が残ることもたしかである。こういう場合、やはり旧来の紙の辞書を見るということになるかと思う。

現在、WEB版デジタル辞書は、ジャパンナレッジのような有料課金システムになるか、あるいは、無料で使えるが広告が入るか、ということになっている。

令和の年号が発表されたときのことが出てきていた。「令和」を用例カードに書き込むとき、「令」の字を明朝体のデザインで書いていた。たしかに、官房長官の示した字のかたちもそうであった。しかし、この字は、手書きでは「マ」のように書くのが通例である。あるいは、手書きの慣習である。

これは、今の学生も大きく影響を受けている。令和の年号が決まったとき、教えている学生に、コミュニケーションカードに漢字を書かせたことがある。圧倒的に、明朝体のデザインに従って書いている。これは、今の時代の趨勢かもしれない。

しかし、ドラマに登場していた、日本語学者の松本先生の年代なら、「マ」のように書いてもいいところである。

ところで、ドラマのなかで本(辞書)を初めて開いてみるシーンがあった。このとき、最初からページをめくっていくのではなく、まず真ん中あたりを開く。本、特に厚みのある本の扱い方としては、これが正しい。

2024年4月10日記

映像の世紀バタフライエフェクト「巨大事故 夢と安全のジレンマ」2024-04-11

2024年4月11日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 巨大事故 夢と安全のジレンマ

登場していた映像の多くは記憶のうちにあるものであった。とはいえ、さすがに飛行船の事故とか、タイタニックは知らないが。

科学と技術、その発展が巨大な事故につながる。このことはいたしかたのないことかもしれないが、そこにあって、人間がどれだけの努力をするかということが問われることになる。

飛行船の事故が水素によるものであることは知っていたが、それが、アメリカからヘリウムを輸入できなかったせいで、水素を使うことになったことは、この番組で知った。

興味深かったのは、アメリカで行われた飛行機事故の実験映像。実際に飛行機を墜落させて事故をおこしてみる。このような映像を見たのは初めてかと思う。(この発想の延長になるのだろう。自動車の開発では、実際に事故を起こしてぶつけてみてどれだけ壊れるか、乗員は安全か、試験するようになっている。この試験で、日本で不正が発覚したのはつい最近のことである。)

それから、新しいタイプの原子力発電。事故が起こることを前提にして、それでも安全なように作ってあるという。このことは、テレビの報道などで見たとは憶えていないのだが、はたしてその安全性はどのようなものなのだろうか。原子力発電について、その危険性を言うだけではなく、より安全にするにはどのような工夫がありうるのか、このようなことについても伝えられるべきかと思う。

ただ、原子力発電について、ドイツにならうべきだというだけでは一面的すぎる。ヨーロッパの諸国は、お互いに電力を輸出入できる。ここは、広い地域での電力について、発電と需給について総合的に見る必要があるだろう。少なくともEU域内、さらにはロシアなどもふくめて総合的に見るべきだと思う。

そして、これからの未来の人びとの生き方が、どのようなライフスタイルであるべきか、という議論が必要だろう。新しい技術が人間に不幸をもたらすことがあるとしても、もはや世界の多くの人びとの生活を産業革命以前にもどすことは不可能であろう。

人間は必ずミスをする。そのことを前提にシステムは構築されるべきである。

2024年4月9日記