100分de名著「フロイト“夢判断” (4)無意識の彼岸へ」2024-04-26

2024年4月26日 當山日出夫

100分de名著 フロイト“夢判断” (4)無意識の彼岸へ

もう隠居ときめているので、ある意味でこのような番組をかなりリラックスして見ることができる。

専門分野はまるでちがうのだが、しかし、学問的に正確なことを、よりわかりやすい一般的な言い方でつたえるのは、かなり難しい。厳格に定義された専門用語で話す方がずっと楽である。

これまでの四回を見てきて、ここのところを実にたくみに話しをしているな、と感じたものである。

フロイトが言っていること、それを現代の観点からはこう解釈できるということ、また、批判があるとしてどのような批判があるのか、さらには、それらについて自分はどのように考えるのか……ここのところが、はっきりと区別する話し方になっていた。こういう複雑なことがらを、明瞭に区別して話すということは、とても難しいことである。しかも、一般の視聴者を相手にしてのことである。その難易度はかなり高い。

フロイトの研究、精神分析が、はたしてサイエンスであるかどうか、このことについては、まったく言及することがなかった。ほのめかすことさえもなかった。このことは、この専門の分野においては、常識的なことなのかもしれない。あるいは、心理学という分野は、現代ではサイエンスとして一般に認識されていると思うのだが、だからあえてまったく、このような方向に話しを持っていかなかったかとも思う。(私は、精神分析がサイエンスでなければならないとは思わない。また、サイエンスだけが学問の方法だとも思わない。ちなみに、今では、私は人文科学という言い方をしない。人文学ということにしている。)

フロイトは、無意識が人間にはあるということを発見した、ということでいいのだろう。では、人間は、無意識からどれほど自由でありうるのか、と考えることができる。

近代的な人間観の根底にあるのは、私の理解では、自由意志を持った独立した個人、という措定である。

人間の自由意志で選ぶことのできないことがら……肌の色であるとか、性別であるとか、どのような文化的環境、社会的経済的環境に生まれたか……このようなことによって、差別されることがあってはならない。これらを超越したところに人権をとらえることになる。はっきり自覚されないとしても、暗黙の前提となっていることかと私は考えている。

では、このような人間観において、無意識の存在とはどういう意味をもつのだろうか。人間は、無意識から自由でありうる、自由に判断し思考することが可能なのだろうか。また、無意識と、文化的な要因や性別などはまったくの無関係といえるのだろうか。このあたりのことが、最後に疑問として残ることになる。

フロイトは人間を装置ととらえていた。今なら、人間はコンピュータにたとえることになる。この一世紀あまりの間に、人間とはどんなものなのか、その根本的なところで大きな変革が起こってきたことも確かである。生成AIの時代、人間の無意識について、どうか考えるようになっていくだろうか。

2024年4月23日記

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2024/04/26/9678955/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。